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三戸新兵衛の住居地

 投稿者:けんじ  投稿日:2018年10月18日(木)15時08分8秒
  なな様

三戸新兵衛の住んでいたところが江戸時代の古地図に載っていました。

松山城堀之内のなか、北西の位置に三戸新兵衛の名が記載されています。
(松山城主 加藤喜明、寛永四年蒲生忠郷、松平定行の時代)


この古地図は次の資料集の資料―1としてカラー刷りで入っています。70㎝×70㎝のサイズです。

「郷土古資料集(一)松山古地図・資料(近藤・豊島家伝)」 昭和56年9月15日発行 定価3,800円
  解説者代表 近藤元邦
  発行所   東雲書店  原正行
        〒790-0805 愛媛県松山市西一万町2-16
             TEL.089-941-0909(不在が多いので問い合わせはメール使用のこと)
             FAX.089-941-0909
              メール furuhon_kibun1108@yahoo.co.jp

東雲書店には現在も在庫があるそうですが、現在は古本として販売しているそうです。

参考のためお知らせします。
 
 

三戸新兵衛について

 投稿者:けんじ  投稿日:2018年10月17日(水)22時24分12秒
  なな様

お忙しい中、ご返事ありがとうございました。ご連絡を楽しみにしています。

正虎氏の御先祖 三戸新兵衛のことにについてですが次の2冊に詳細が記載されています。、

     「却睡草・赤穂御預人始末」伊予史談双書      頒布価格 1,800円

      「松山藩役録」      伊予史談双書 (松山藩の職員録の様なものです。) 同上2,400円

  いずれの本も愛媛県立図書館(TEL089-941-1441)の窓口で現在も購入することができます。
   (県立図書館が伊予史談会の窓口を兼ねているようです。)


〇「却睡草(めざめぐさ)」には三戸新兵衛のことが記述されています。
 この本は文政元(1818)年安井煕内著を伊予史談会が双書として出版したものです。
 藩公と新兵衛との親密な関係が伺えます。

 内容は「松山藩の歴代藩公の善政と美徳を讃え、家中武士に見る古武士の風格を賞でる。」ものです。

〇「松山藩役録」では三戸新兵衛 三百五拾石をはじめ三戸半右衛門、三戸四郎兵衛、三戸茂右衛門、
          三戸太左衛門、三戸九八郎、三戸権左衛門、三戸半左衛門などの名前が見えます。

また、十代 三百石 三戸半右衛門  初代監物、越前浪人、元和三年於伏見出、二百石馬廻

   七代 百石  三戸権左衛門 初代権左衛門、三戸新兵衛二男、正徳元年被召出、切米小                 姓、万治元年新知百石、勝山様内小姓頭、

   六代 五十俵 三戸庄太夫  初代四郎兵衛、毛利浪人、寛永年中歩行抱、二代目十石定英公付掛盤、                 後藤原花畑預、享保元年五十俵与力抱直シ、五代目五十俵与力、稲苗流                 炮術ニ依而文化二年直参、五十俵大小姓

     などの記載もあります。
              まずは参考まで。


 

三戸正春氏について

 投稿者:なな  投稿日:2018年10月17日(水)18時41分39秒
  けんじ様
お世話になります。
貴重な情報、ありがとうございます。
正春氏は、正虎氏の長兄です。
長兄、次男が亡くなり、三男は養子へ行ったため、四男の正虎氏が家督を引き継いだとのことです。
資料は整理して、けんじさんのメールアドレスに送らせていただきますので、少しお時間をください。
今後ともよろしくお願いいたします。
 

三戸正春氏について

 投稿者:けんじ  投稿日:2018年10月16日(火)09時30分26秒
  なな様
おはようございます。
昨夜、「明治十四年十二月松山市街地々価一筆限帳」温泉郡松山市街三番町のところを調べていましたら次のことが載っていました。

地 番    松山市三番町四丁二番
坪 数   二百七拾九坪三合
持主氏名  三戸正春

三戸正春氏が正虎氏との続き柄はわかりませんが載っていました。

三番町は当時松山藩の主要な家臣が住んでいたところでした。

何かの参考になればとお送りします。

私は今年から松山子規会の監事をしていますので、松山子規会のホームページで平成30年の役員を見ていただければ名前がでてきます。

今後ともよろしくお願いいたします。
 

三戸正虎について

 投稿者:けんじ  投稿日:2018年10月16日(火)00時08分38秒
  ななさま
早速のご返事ありがとうございます。私は愛媛県松山市に在住しているものです。松山子規会に所属して子規の研究をしています。
子規の小学生時代のことを調べていく中で、愛媛大学の井手淳二郎先生が、昭和二十六年九月三十日に上灘町つたや旅館の奥座敷に仮寓していた三戸正虎八十六翁を訪ねてお聞きした「子規の思い出」ををまとめた文章を読んだことに始まります。

三戸氏のことを調べる中、ななさんの掲示板にたどり着いたので投稿させてもらいました。

三戸氏からの聞き取りは少ないのですが、三戸氏は三戸新兵衛という人の子孫で、祖父君は三津の町奉行をしていた。住宅は三番町の中程南側に住んでいたそうです。それから子規の人となり、真之の乱暴ぶり、秋山好古の三主義のことなどお話しされています。

短いお話の中、的確に述べておられる三戸正虎氏がどんな人なのか、写真でどんなお顔をしていたのか、その後どのような人生を送られたのか、子孫のかたはどこに住んでおられるのか、また子規こと、真之のこと、好古のこと、その他のことを書き残しておられるのではないかと思ったわけです。

是非、資料をご提供願いたいと思います。

わたしの連絡先はEmail:a273282000@yahoo.co.jpです。ご連絡をお待ちしています。

                               けんじ





 

三戸正虎について

 投稿者:なな  投稿日:2018年10月15日(月)10時32分46秒
  けんじ様
はじめまして。ななと申します。
実は、主人の曽祖父が三戸正虎です。
三戸は「みと」と読みます。
義父が遺した古い系図に、三戸姓はもともと水戸、さらに遡ると江戸姓であったということが書かれてあり、その謎を知りたくて、以前、館長さんにご相談させていただきました。

その時館長さんに送った資料一式、実はこの曽祖父正虎氏が後世のためにと、正虎氏の祖父七代目正竒(まさあや)が書き記したものを、昭和25年、正虎83歳の正月に書き写したものでした。
そしてその際に、正虎氏自身が自分の半生記を新たに綴っております。

それによると、確かに正岡子規や秋山真之のことが書かれております。
以下、一部抜粋です。
「当時同窓の盟友は白川義則(陸軍大将)、小川尚義(台北帝大文政学部教授)、秋山真之(海軍中将)、白井友景、正岡常規(子規)、猪田正信、水野正弘、東条種家、上坂正之、小川清敬、池内茂、谷信貫の諸氏あり。
三戸の庭は子供の集会場となれり。鬼ごっこ、徒歩競争、撃剣、相撲など毎日の行事なりし。」
他にも当時の風習、慣習、世相、廃藩置県後の激変した生活の様子、その後の人生など、かなり詳細に書かれております。
また、昭和14年に撮影されたた家族写真も遺っております。

そもそもけんじさんは、どのようにして三戸正虎のことをお知りになったのでしょうか?
曽祖父は教育者であったと聞いていますが、あくまでも愛媛の一市民に過ぎず、私としては驚きを隠せません。
よろしくお願いいたします。
 

松山藩の三戸正虎について

 投稿者:けんじ  投稿日:2018年10月14日(日)22時21分58秒
   松山藩の三戸家についての投稿がありましたのでお教えいただきたく投稿いたしました。
松山藩の三戸正虎は俳聖正岡子規と小学校の同級生で、いつも行動を共にしていたそうです。同級生は子規の外に秋山真之、小川尚義がいたそうです。
 私は松山藩の三戸家のことを知りたいのですが、たとえば姓の読み方、写真等をさがしています。わかればお教えください。
 

返信

 投稿者:江幡苗字  投稿日:2018年 9月18日(火)20時22分0秒
編集済
   館長(館長が敬語なので館長で書き込みます)のおっしゃる通り、涸沼川(涸沼前川)です。

 瀬戸井街道から旧宍戸街道を進むこと約一キロ、川べりに飯島・佐藤・川原井・江幡ときちんと並んだ家のなわばりは偶然とは思えません。川原井家の家主にも言伝えがあって、やはり先祖は足利の負け侍だったということでした。飯島は江戸氏の家来として存在していたようですが佐藤・川原井は確認できません。

 江戸時代に分かれた江幡家には、歴史好きだった夫人がいてよくお話を聞かせていただいたのですが残念ながら亡くなられています。『江戸氏の子孫であり先祖は下江戸だったようだ。』と話しておられ、福島の三春に同族がいて挨拶をしてきたと言っていました。宍戸藩の五代藩主の侍従をつとめ長らく庄屋をした家なので昔話にも熱が入っていました。ただ残念なのは、佐竹に攻められた折、南にも行方衆もおりどういった形で居場所を移したのか、館長も知りたい部分が聞けませんでした。おそらく書物には残っていないと思われます。

 江戸氏は最初にいただいた領地(ほろう)は、鯉淵・赤尾関・河和田といろいろな書物に書かれています。金上から青柳・枝川方面から攻めたとされれば、引く場所はやはり鯉淵のかなと思います。

 突然私事ですが、見川の徳川さんの娘さん私の娘とは水戸城の本丸があった場所の高校の同窓生で、数年前偶然にも大手観光会社の水戸支店長と会食をしたとき歴史の話に盛り上がったところ『私は、結城寅寿の子孫です。直系ではないですが』(佐竹に攻められた折結城氏を頼ったと書物で読む)。


 館長がもし、県博に在籍していたのなら上記の古文書をみせていただくため話をしようと思っています。

 

投稿者:江幡苗字の一人様へのコメントです

 投稿者:館長です  投稿日:2018年 9月 8日(土)04時15分5秒
  続コメントです。駒場と川沿いが関連あれば、川とは涸沼川ですね。江戸氏の家臣、海老沢氏の故地の近くなのと、江戸通雅の頃頻繁に軍勢を通したところなので、江戸氏の庭の範囲ですね。  

投稿者:江幡苗字の一人様へのコメントです

 投稿者:館長です  投稿日:2018年 9月 8日(土)04時03分46秒
  面白い記事ですね。しかしお城の名前ですが、場所柄では「小幡城」ではないでしょうか。「木幡」ですと、茂木にはあるようですが?
また「らんとう」も珍しい地名ですね、鉾田には昔「猫内欄塔」という地名があったようですが、これもはっきりしません。何か古文書のようなものがあればよいのですが。
 

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