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こんなのを見つけました。 2

 投稿者:みわちゃんのおじいちゃんメール  投稿日:2007年 5月30日(水)11時09分37秒
  http://www.asahi-net.or.jp/~DG8H-NSYM/edo-ke.html

概説  北側東寄りの部分から東側にかけて土塁と空堀が廻っている。また、東側には虎口状の土塁の切れ目があり、通路となっている。南側は10mほどの崖で、その下の谷には大池という溜池が作られている。江戸家の構えは一見すると土豪の館風であるが、江戸期の豪農の屋敷のなごりとも考えられる。[『筑波町史』より]

訪問記 [2002/12/31]屋敷北側の土塁の上には板塀が立ち、この土塁は現在も機能している。土塁という遺構は現在は土塁だけが残っているが、当時はこんな景色だったのかも。ただ、「一般に発掘された土塁上には柵列は見つかっていない」という話を耳にしたこともある。
所在地 つくば市作谷東坪。大池の北西側。
参考書 『筑波町史』
 
 

みわちゃんのおじいちゃんへ

 投稿者:江戸です  投稿日:2007年 5月29日(火)00時03分2秒
  作谷の江戸家についていろいろとお調べ頂きありがとうございました。また、作谷の江戸家が重通の子孫なら先祖がわかってよかったです。小さい頃からうちはなんで変わった姓なんだと子供ながらに思っていましたし、 よく江戸時代とか江戸紫などとからかわれたものです。「みわちゃんのおじいちゃん」のおかげで江戸姓がなんとなくうれしいです。ありがとうございました。感謝!!  

こんなのを見つけました。

 投稿者:みわちゃんのおじいちゃんメール  投稿日:2007年 5月28日(月)18時13分22秒
  江戸家(つくば市作谷)


 「村史千代川村生活史」によると、江戸家は作谷の信号の東南300mほどの所にあったらしい。美浦村お散歩団では、いかにも城館的な塀が掲載されていて、心惹かれるが、その場所を探し当てることができなかった。しかし、台地南側には、写真のように虎口状になっている所が何ヶ所か見られる。城館に伴う遺構である可能性があると思われる。
 やはり小田氏に属した土豪層の居館跡か。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/6650/tukuba.htm

作谷には、江戸という人はかなりいるらしいですね。
 

重通の子孫

 投稿者:みわちゃんのおじいちゃんメール  投稿日:2007年 5月28日(月)10時19分24秒
  1590年の水戸城落城後の江戸家の人たちを調べていて、次のHPを見つけました。

秀康・忠直家臣団履歴

http://www.page.sannet.ne.jp/kuranosuke/echizen-kasin.html

この中に、

「水戸三七」が出ています。

実名実(宣)通。初め江戸但馬守と称した。江戸重通の二男。佐竹義重の娘を妻とするが、水戸城落城に際して離別。重通の娘が結城晴朝の養女となっていた関係で結城に逃れ、その時に「水戸」と改名。元和九年、病気のため合力米を返還した。(「諸士」・『江戸氏の研究』)

「元和九年(1923年)、病気のため合力米を返還した」とは、クビにされてしまったようですね。元和九年に徳川秀忠、息子家光に家督を譲り、三代将軍徳川家光が誕生しています。江戸家再興の見込みがなくなって、利用価値がなくなったのでしょうか。
又次のHPによると

http://f2.aaa.livedoor.jp/~kshine/1edo%20clan.htm
江戸重通 えどしげみち 1555~1598
常陸の国人。江戸通政の男。通称彦五郎。官途は但馬守、従五位下。妻は結城晴朝の妹。常陸水戸城主。1576年に叙位任官された。江戸氏と佐竹氏の関係は微妙で、明確な従属関係はない。しかし1577年に下野小山において佐竹義重とともに北条氏政と戦っている。翌年には北条氏とも和睦し、1585年より常陸大掾氏とも抗争するが、江戸氏の領国経営は余り進まなかった。1588年には神生氏の乱が起こって家中は騒動し、さらに小田原の役では北条氏に通じて参陣せず、却って秀吉に認められた義重・義宣による攻撃を受け、水戸城を失って1591年義兄結城晴朝を頼る。娘は結城晴朝の養女として結城秀康に嫁いでいる。また息子宣通は越前松平氏につかえて千石を食む。

宣通は千石貰っていたらしい。重通は、1598年に亡くなっているから、福井に行っていません。結城家の転封は1601年。

福井では、宣通ー水戸内匠朝祇ー朝栄水戸平兵衛朝栄、とつながったようだが、水戸と改姓して、江戸家の「通」の字もつないでいません。「朝」は、結城晴朝から貰ったものでしょう。すっかり、結城の家臣になっています。

重通15561598通政子宮房丸彦太郎従五位下但馬水戸城主

  通升====1588重通子小五郎

  宣通重通子三七郎

  実通重通子水戸三七郎

朝祇実通子水戸内匠

朝栄朝祇子水戸平兵衛

http://www.geocities.jp/kawabemasatake/satake.html

私は、作谷の江戸さんは重通の長男通升(1588小五郎)の子孫だと思います。
 

作谷の江戸さん

 投稿者:みわちゃんのおじいちゃんメール  投稿日:2007年 5月22日(火)15時03分58秒
  作谷の江戸さんは、重通の子孫だと思いますが、重通は1590年水戸城落城の時、結城晴朝のもとへ落ち延びます。重通と晴朝とは、お互いに、妹を妻として親しかったようです。1600年に関が原の合戦があり、天下が変わります。結城晴朝は秀康(家康の次男で、秀吉の養子)を養子にしており、1601年に、結城家は大加増され福井に転封されます。しかし、家名を松平にしてしまい結城はなくなってしまいます。重通は結城家の客分として福井で住んだようです。家名を江戸から水戸と変えます。
作谷の江戸さんのところは、転封の時福井に行かず、つくばに残ったのでしょうが、その理由は私は次のように思います。
江戸さんのところは、結城家から領地を貰ったのですが、水はけの悪い荒地を与えられたのではないか。谷をつくって排水をよくする工事をしたのでしょう。そこで、作谷(ツクリヤ)という地名が出来た。工事をしている時、転封となり、新しい領主がそのまま残って、工事を継続するよう求めた。その時町人になったかも知れない。
新しい領主は、徳川の旗本の水野家なので、幕府に遠慮がなく、江戸姓がそのまま残った。、
 

館主さま

 投稿者:江戸です  投稿日:2007年 5月20日(日)20時15分38秒
  ありがとうございます。しかし私では江戸時代前~江戸時代末期の先祖の情報はありません。祖母が大正生まれなのでいろいろと知っているでしょうが・・・何か情報があれば協力したいと思っております。前回の「つくば市」の情報で補足すると、つくばには現在、江戸姓は20件くらいあるようです。場所は下妻方面に近い作谷(ツクリヤ)という地域です。両親の話では、昔は庄屋(しょうや)?とか言って小作人を使ったりしてその地域の地主でいろいろやっていたようです。江戸時代末期ころから明治初期ごろにはかなりの財閥で葬式の時には、自宅からお墓まで人力車が並んだそうです。それと偶然か必然かわかりませんが、現在私は那珂市の額田城跡の三の丸付近に住んでいます。  

投稿ありがとうございました。(江戸さんへ)

 投稿者:館主メール  投稿日:2007年 5月20日(日)05時44分35秒
   あらたに江戸氏に先祖持つ方が投稿していただいて、本当に嬉しい限りです。当館を訪問していただき、ありがとうございました。大歓迎です。しかも、苗字が「江戸」ということで、それはさらに嬉しいと思います。

 実は江戸英雄さんは生前、父に連絡をいただいて会っていたようです。もちろん父も既に亡くなっているので、詳しい話はもう聞けませんが。しかし、父から聞いた話では、江戸さんは「お互い同じ系図(江戸氏系図)を持っているようなので、一度上京して、会いませんか」と、北海道の父に連絡があったとのことです。父は一介の仕立て屋でしたから、三井の重役からの電話で、たいへん驚きながらも、父自身が系図に興味がありましたから、会いにいったことを聞いております。

 ですから江戸さんはご存知かどうか分かりませんが、江戸英雄さんは系図をお持ちだったのでしょうね。江戸英雄さんが筑波の出身ということは知っていましたが、筑波に江戸さんがたくさんいらっしゃるとは思いませんでした。

 「那珂・江戸氏一族掲示板」でみわちゃんのおじいちゃんが一足先に投稿をいただいておりますが、同じ江戸氏出身ということで情報交換させていただいております。

 私は55歳のサラリーマンで、限られた時間でホームページを運用しております。「詳しい」と言っていただきましたが、先祖に興味を持つだけでも歴史が結構面白くなるものです。私やみわちゃんのおじいちゃんは秋田に先祖を持ち、茨城県につながっています。

 今後、江戸さんの筑波のサイドから情報をいただければ、さらに嬉しい限りです。みわちゃんのおじいちゃんのご協力もあって、近く、那珂市を調査のため訪問しようと思っております。

 私はどんな情報でも結構です。例えば、今回は筑波周辺に江戸を名乗る方が多い、という情報をいただきましたが、ぜひ今後も掲示板を気軽に訪れていただき、ご意見、情報を頂きたいと切望しております。
 

私も昔は江戸でした。

 投稿者:みわちゃんのおじいちゃんメール  投稿日:2007年 5月19日(土)09時54分27秒
  私の家の本家は、色々調べたところ、常陸江戸家の最後から2番目の当主、忠通の弟通済から直系で繋がっているようです。
貴家は、「もともと水戸市あたりに住んでいたが佐竹に追いやられ結城のほうに逃げたようです」ということは、最後の当主重通の子孫でしょうか。
通済の長男通広は、北条に内通したと疑われ、江戸本家を守るため自刃しました。通広の三男通勝が佐竹家の家臣となり、私の家です。
通済の次男通高は、当主重通に代わり、水戸城で討死し、当主重通を結城のほうに落ち延びさせました。
江戸姓の者は、江戸時代に名を変えさせられた人が多いのですが、貴家が江戸姓で残ったという事は、結城家が福井の方に国替えさせられた時ついて行かないで町人になったのではないでしょうか。
私の家は、1702年に、藩主の命により、名を変えさせられました。

http://http://www2.harimaya.com/sengoku/html/edo_k.html

 

はじめまして

 投稿者:江戸です  投稿日:2007年 5月17日(木)23時55分45秒
  自分の江戸という姓について検索したところこちらを拝見させて頂きました。みなさん非常に歴史について詳しい方ばかりで驚いております。少し私の話をさせて頂くと、元々はつくば市の出身です。つくばの作谷には江戸という名字が多いです。有名な方では三井不動産の社長も勤めた江戸英雄さんも同じ出身地です。その他に株木建設の株木さんも同じと聞いています。私の父の話では、
もともと水戸市あたりに住んでいたが佐竹に追いやられ結城のほうに逃げたようです。ちなみに両親とも名字はともに江戸で結婚するなんて珍しいですよね。
 

(無題)

 投稿者:みわちゃんのおじいちゃんメール  投稿日:2007年 5月 6日(日)00時56分3秒
  >私も通広が自刃した事情を隠している事には同意します。しかし、「死刑」という言葉には同意できません。たとえ通広が小場氏の家臣同様になっていようと、時代はまだ戦国の世、通広は一国一城の主です。おそらく、江戸宗家が滅びる前の出来事でしょうから、小場氏から一方的に死を強制されたものでしょうか。そうだとしても「死刑」というのは武士にとって最大の恥辱です。百歩譲ってそうだとしても、小場氏は武士の情けで、自刃の道をとらせたと思います。

私も大体同じような考えです。通広が北条に内通しているという事は、秀吉方から佐竹本家に連絡されたのでしょう。小場家としては、通広をかばいようがなかったのでしょう。自刃させた時に三男通勝の帰参は決まっていたのでしょう。通勝は22歳でしたが、江戸宗家を完全に離れて、小場家の禄をもらうようになったと思います。そうでなければ、水戸城落城の時討死しなければならなかったはずです。水戸城落城の時には、通広の弟通高が討死しています。通広自刃が、天正18年(1590)6月で、水戸城落城は12月で6ヶ月しか差がありません。通広長男通武は、北条との連絡の実行役だったのではないでしょうか、父と共に自刃させられました。通広の弟通高は、父通済、兄通広存命中の天正14年(1586)に、吉田神社に棟札を収めています。実際下江戸の城代のような仕事をしていたんではないかと思います。その頃父通済、兄通広は、重通若年の為、水戸城の仕事が忙がしかったのではないかと思います。



>自刃して江戸宗家に責任なく、自らの決断で小田原と同心したことを示す

実際は、重通が知らなかった訳はないと思いますが、「自らの決断で小田原と同心した」としたのだと思います。
 

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