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家系図

 投稿者:さいたまの江戸  投稿日:2007年 7月25日(水)18時30分5秒
  家系図で先祖を調べる  
 

江戸山城守と作谷

 投稿者:みわちゃんのおじいちゃんメール  投稿日:2007年 7月12日(木)21時18分52秒
  >江戸山城守は元々、作谷を拠点とした武将であったと思います。だからこそ、作谷で5000石と書いていますね。子息の茂太夫が作谷で庶民となったのは、屋敷の一角だけ佐竹氏から安堵されたからでしょう。「作谷に入った」のではなく、「作谷に居残った」のですね。そういう意味では、下江戸の那珂家と同じだと思います。

私もそうだと思います。
常陸江戸家は何石ぐらいあったのでしょう。あまりなかったような気がするのですが。
太閤検地の前に潰れてしまったから、あまりはっきり分らないでしょうが。
5万石くらいはありましたかね。那珂家の時代に一度潰れてしまっているから、先祖伝来というものは無いですから。

江戸山城守は、常陸江戸家があることはよく知っていたわけですね。
もし同族だったら、ご挨拶に行ったかも知れない。
常陸江戸家は、江戸山城守を知らなかったかもしれない。小田家の一武将に過ぎませんから。
小田家には、江戸という姓の人が別にいましたね。家臣録で、一度気が付いたのですが見失ってしまいました。あまり録の高くない人でした。

>1569年に小田城が落ちますが、小田氏は健在で、齋藤本で明らかな通り、水戸江戸氏の反佐竹、親北条の同盟相手は府中(大掾氏)、江戸崎、龍ヶ崎(土岐家)に、土浦の誰あろう小田氏であったことを思えば、

そうだったのですか、気が付きませんでした。

作谷の江戸さんが、菊一の紋を持っているか、つくば市桜歴史民俗資料館に聞いてみたところ、調べてくれるそうです。
また、作谷の江戸家の石碑に何が書いてあるのかも調べてくれるそうです。

福井県の水戸但馬家のトピは、ヤフーから潰されてしまいました。個人情報に関することはだめなようです。
 

江戸山城守と作谷

 投稿者:館主  投稿日:2007年 7月10日(火)21時47分27秒
  みわちゃんのおじいちゃんと私の見解の違いがあるかと思います。江戸山城守は元々、作谷を拠点とした武将であったと思います。だからこそ、作谷で5000石と書いていますね。子息の茂太夫が作谷で庶民となったのは、屋敷の一角だけ佐竹氏から安堵されたからでしょう。「作谷に入った」のではなく、「作谷に居残った」のですね。そういう意味では、下江戸の那珂家と同じだと思います。

江戸山城守が5千石というのは、やはりオーバーだと思いますね。

あと、1569年に小田城が落ちますが、小田氏は健在で、齋藤本で明らかな通り、水戸江戸氏の反佐竹、親北条の同盟相手は府中(大掾氏)、江戸崎、龍ヶ崎(土岐家)に、土浦の誰あろう小田氏であったことを思えば、1590年初めでは、小田氏は堂々、戦国大名であったことは明らかです。
 

江戸山城守 雑感

 投稿者:みわちゃんのおじいちゃんメール  投稿日:2007年 7月 9日(月)16時42分9秒
  (1)一門引渡
     甲山館主       八千五百石    小神野越前守
     吉村          五千石       吉原越前守
     作谷          同          江戸山城守
     坂            同          坂 大学介



     戸崎          同          戸崎道閑斎

五千石とは随分石高が多いですね。常陸江戸家では、藩主の弟通澄でさえ、七百貫、千五百石ですから。さば読んでいるのでは。

(2)江戸英雄さんの伝記によると、「天正18年(1590年)江戸山城守とその子江戸茂太夫が、現在地(作谷)に土着して土豪となったようだ。」とありますが、実際はもっと早くに作谷に入ったんだと思います。1569年小田城が落ちた時入ったのでしょう。

と書いたけれど、小田氏はもっと長く戦ったようですね。
「常陸・小田城と小田氏」に
「1588年9月、佐竹勢の大田三楽斉、梶原影国、太田資武らは手配山の麓に出陣し、小田氏治と戦い、小田勢の先鋒である江戸山城守、大藤小太郎らが討死。」とありますから、1590年位に入ったのでしょう。

(3)小田城はのち、佐竹氏の一族・小場義宗が城主になったが、1602年佐竹氏が秋田移封になると小田城は廃城となった。

私の先祖の江戸長門家の通勝は、小場義宗の家臣だったのだから、小田城、作谷に行った事があるかもしれない。江戸山城守も知っていたかな。

(4)通勝は、1590年6月父通広が自刃した時、小場義宗の家臣になっていたのではないか。父の不祥事で、停職になったがすぐ帰参を赦されたのでしょう。だから、12月の水戸城の落城の時参加しなくてすんだのでしょう。

(5)通勝は、45石取りです。秋田では半分にされたようだが、秋田に行ってからかもしれない。山城守に比べると随分少ないですね。

(6)佐竹に攻められて、常陸江戸家はすぐ滅亡してしまったが、小田家は長くがんばったようです。常陸江戸家歴史が短いからでしょうか。
また、江戸山城守は、作谷でゆうゆう暮らしたようだが、下江戸の那珂家(斉藤家)は村長はやったものの分家も作らず遠慮しながら生きていたように思います。これも、常陸江戸家歴史が短いからでしょうか。

(7)この前、下江戸の那珂さんの家に行った時、菊一の紋を見せてくれましたが、写真を撮ってくれば良かった。我が家には、菊一の紋は伝わっていません。藩主の命により廃棄させられてしまったからです。
江戸山城守家が、菊一の紋を持っていれば、常陸江戸氏の子孫でしょうが、私は持っていないと思いますね。資料館に訊いて見ましょう。
 

江戸山城守

 投稿者:館主  投稿日:2007年 7月 8日(日)22時36分39秒
  この間紹介した
http://www.asahi-net.or.jp/~ku4t-tkhm/odaichimonkafuu.htm
参照すると

一門引渡
     甲山館主       八千五百石    小神野越前守
     吉村          五千石       吉原越前守
     作谷          同          江戸山城守
     坂            同          坂 大学介
     戸崎          同          戸崎道閑斎

以上の記事(抜粋)があるので、江戸山城守はかなり前から作谷で5000石を食んでいたようです。なお、作谷はヤマトタケル東征のころ。「ここは谷津が多いから:、谷を造ると書いて造谷(つくりや)がよい」とヤマトタケルが名づけたと伝説があるそうです」

また、文禄4年の東(佐竹)中務義久の知行目録に「554石5斗4升1夕 つくりや」とあるとのことです。佐竹領となっていたことも間違いないでしょう。

なお江戸治義とありますが、小田家は代々「治」の字がつきますね。(氏治、政治・・・)おそらく、主君から一字貰ったのでしょうから、相当信頼された家臣なのでしょう。

ですから、この名をもって出自を云々するのは危険でしょう。越前に行った水戸氏も結城から「朝」の字を貰っているのですから。

江戸山城守をもっと詳しく調べたいですね。ひょっとしたら、仲田先生がちらっと言っていた「江戸崎」の江戸かも知れないですし、いずれにしろまだ分かりませんね。

それにしても、江戸氏も小田氏も本家が結城のお世話になるのも、何かの因縁でしょうか。

なお、
http://www.rekishi.sagami.in/tukuba.html
にも江戸山城守が出てきます。1573年の頃です。コピーできませんので、直接見てください。
 

作谷の江戸家

 投稿者:みわちゃんのおじいちゃんメール  投稿日:2007年 7月 8日(日)17時41分29秒
  つくば市桜歴史民俗資料館に質問していたのですが、次の回答を頂きました。

つくば市作谷や田中について1590年頃の支配についての質問ですが、
小田氏が、永禄12年(1569年)に佐竹氏の総攻撃を受け、本拠地の小田城
を奪われ、その後小田城を奪い返す事が出来ずに、小田氏は、結城家の食客
となり結城氏と共に越前へ去ります。

 つまり、永禄12年(1569年)から、佐竹氏が秋田へ移封となる慶長7年
(1602年)の間は、作谷村や田中村は、小田城の勢力下にあり、佐竹方の
支配下にあったと言えます。
 この件につきましては、「国指定史跡 小田城跡」のパンフレットをお送り
しますので、そちらもご覧下さい。

江戸英雄さんの伝記によると、「天正18年(1590年)江戸山城守とその子江戸茂太夫が、現在地(作谷)に土着して土豪となったようだ。」とありますが、実際はもっと早くに作谷に入ったんだと思います。1569年小田城が落ちた時入ったのでしょう。最初は相当警戒していたらしく、家の周りに二重堀を作ったりしていたようですが、佐竹家に降伏して帰農したのでしょう。1569年頃は、佐竹家と常陸江戸家の関係は良好ですから、常陸江戸家も出兵したかも知れません。

作谷の江戸家敷地内には、石碑「江戸氏女阿貫碑井銘」があり、遠祖の治義の代に帰農したという。江戸山城守治義と言っていたらしい。常陸江戸家の名前ではありませんね。
この石碑が出来たのが、1590年で、常陸江戸家滅亡の年です。この石碑の内容が分かると良いのですが。

「国指定史跡 小田城跡」のパンフレットによると、1531年(享録4年)小田政治は江戸通泰に鹿ノ子原で勝利するとあります。忠通の父の通泰です。
 

作谷の江戸家

 投稿者:みわちゃんのおじいちゃんメール  投稿日:2007年 6月24日(日)21時31分51秒
  >江戸山城守について下記に記事がありました。
これによれば、「小田六騎」に数えられた武将だったようです。つまり、作谷の江戸家はこの地元の武士で、主家の小田氏が滅亡した事で、武士わやめて庶民となったのではないか。

よく調べましたね。これが正解でしょう。

江戸と言う地名は、川口又は井戸に由来するようで、武蔵江戸氏、常陸江戸氏以外にも、第3、第4の江戸氏がいても不思議ではない。

作谷の江戸氏は、第3の江戸氏のようですね。

この事ははっきりさせておいたほうが良いでしょう。

つくば市古民家調査報告書(平成14年3月つくば市教育委員会発行)の中にも、

NO21 江戸裕幸邸(作谷)

旧作谷村の「作谷三太夫」の一家であり、台地の縁に広大な屋敷を構えている。江戸氏は戦国期に水戸城の城主を勤めた家柄として知られるが、敷地内の石碑「江戸氏女阿貫碑井銘」によれば、遠祖の治義の代に帰農したという。

常陸江戸氏とは関係ないでしょう。「江戸氏は戦国期に水戸城の城主を勤めた家柄として知られるが、」は削除したほうが良いでしょう。

(1)東京の江戸地名の由来

「江戸」という地名は、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』が史料上の初見で、おおよそ平安時代後半に発生した地名であると考えられている。

地名の語源は諸説あるが、江は川あるいは入江とすると、戸は入口を意味するから「江の入り口」に由来したと考える説が有力である。当時の江戸は、武蔵国と下総国の国境である隅田川の河口の西に位置し、日比谷入江と呼ばれる入江が、後の江戸城の間近に入り込んでいた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8

(2)常陸下江戸地名の由来

「新編常陸国史」の大井郷の項は、当村にあり「注連を引きて不浄の用に充てず」という古井を、郷名との関連から記している。

可能性としては、江戸隼人通実のように、常陸江戸家を早期に分家し、小田氏の家臣となった場合が考えられるが、治義という名前から、通を相伝していないからおかしい。
 

作谷の江戸家について(4)

 投稿者:館主  投稿日:2007年 6月24日(日)11時39分6秒
  江戸山城守について下記に記事がありました。

http://www.asahi-net.or.jp/~ku4t-tkhm/odaichimonkafuu.htm

これによれば、「小田六騎」に数えられた武将だったようです。つまり、作谷の江戸家はこの地元の武士で、主家の小田氏が滅亡した事で、武士わやめて庶民となったのではないか。

 小田氏については、「関東古戦録」(槙島昭武著 久保田順一現代語訳)では「常陸の小田讃岐入道天庵(小田氏治)の子、彦太郎守治も本領を捨てて逃げた一人である。守治の妹が結城秀康の妾となっていたことから、小田父子は晩年越前に赴き余生を送ったという。」と述べている。

 これは史料を何に求めたかは分からないが、正しいような気がする。江戸大和守の出自までは分からないが、少なくとも水戸城から逃れた江戸氏でないことは、はっきりしたのではないでしょうか。
 

額田の江戸さんへ

 投稿者:館主メール  投稿日:2007年 6月18日(月)22時34分53秒
編集済
   そういうわけで、みわちゃんのおじいちゃんと、いろいろ想像しながら論争してきましたが、はっきりわかりません。ただ筑波がほんの短い間、下江戸近くにいた小場氏の領地だったので、江戸氏落ち武者がお目こぼしになっていたこともあるのかなあ、などと考えてしまいました。また佐竹氏が秋田に行く前も佐竹一族の大山氏の領地ですから、これも下江戸近くにいた武将でした。みわちゃんのおじいちゃんの先祖も、しばらく筑波にいたかもしれませんし。でもきっと小場家も大山家も作谷の江戸家のことは、もしかくまっていたら記録には残さないでしょうね。昔の人は「見ないこと、言わない事=存在しない」といった粋な道徳感があったと信じたいような。どうも僕は作谷の江戸家と水戸の落ち武者と思いたいですね。江戸英雄さんも、私の父もそう思いたかったでしょうね。これは感傷です。

 もうひとつあるのは、もし筑波に江戸家の人が隠れ住んでいるのを佐竹氏やあるいは小場氏が知ったとしても、筑波を支配する頃には、天下も定まっていたので、残党狩りなどはしなかった、と思います。江戸重通がもう、反抗する気もなかったでしょうし、結城家が反抗することを許すはずもないでしょうから、庶民を支配するための装置として利用しようと思ったでしょう。
 作谷の江戸家も下江戸の斎藤家も立派に村長を務め、支配者に必要以上に遠慮をし、だからこそ支配者もお目こぼしをした。今で言うならば、村長をするほど派手な生活をして、「隠れ住んでいた」といえるのは、日本というのはなんと寛容な国民性を持った国だろうと思いますが、これもまた武士の支配方法なのだと思いますよ。刀を振り回して庶民を支配する事が支配者たる武士の政治ではなく、敗者を支配構造に組み込んで、庶民を支配していく、それが日本的、武士道的支配政治だったのではないでしょうか。


 また、武蔵江戸氏であると仮定した場合ですが、当時の武蔵江戸氏は北条という圧力政治勢力が崩壊し、豊臣、徳川は解放軍に見えたはずなので、徳川に敬意を表して、多摩川沿いの喜多見に蟄居し、喜多見氏を名乗ったほどで、その一部であれ、住み慣れた武蔵野を離れ、筑波に移住したという話は、どうなんでしょうね???(やせても枯れても「武蔵武士」、常陸になんぞ何が悲しくて・・・」と僕なら思います。(喜多見藩は下記)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%9C%E5%A4%9A%E8%A6%8B%E8%97%A9

この当時の武蔵江戸氏には未来がありました。常陸に移住する必然性はないと思いました。

 さて、額田にお住まいの江戸さん、家紋とかあるいは古老の伝説とか、ご親戚でなにかお持ちの方がいれば、今度帰られたおりにでも調べてください。歴史は、感傷的に語るものでも、また推測だけでも明らかにできない「事実」が必要です。口承、伝承も立派な事実です。家紋などもそうです。よろしくお願いします。

以上です。
 

作谷の江戸氏について

 投稿者:みわちゃんのおじいちゃんメール  投稿日:2007年 6月18日(月)18時11分6秒
  (1)>つくば市の作谷のところまで、佐竹氏の領地になっていたのでしょうか。

石田光成が秀吉の代官として行った、佐竹54万石の検地の中に筑波郡が入っております。もともと小田氏の領地で、常陸は北条氏から完全に独立しており、関が原以前は佐竹の領地でした。

(2)天正18年(1590年)江戸山城守とその子江戸茂太夫が、現在地(作谷)に土着して土豪となったようだ。

(3)重通は、小田原の陣に参陣しなかったため、秀吉には認められず、佐竹氏の武力侵攻を受け根城13と館8か所を焼失し、1590年12月20日、水戸城を失った。(茨城県大百科江戸氏)

上記の各項から考えると、江戸山城守が常陸江戸氏だとすると、佐竹氏に追い出されたものが、佐竹氏の領地である、作谷に入ることになりありえないのではないか。

江戸山城守が、武蔵江戸氏で、徳川家から佐竹家においてやってくれと頼まれれば、作谷に入ることはありうるのではないか。

私には、作谷の江戸氏が徳川家から保護を受けていたとしか思えないのです。作谷の領主は、色々代わっていると思いますが、作谷の江戸氏が安泰でいられたのは、領主のその上の人、徳川家の保護があったと思います。何故保護されようになったのかは分かりませんが、
小田原の北条征伐の時、徳川氏に協力したのではないか。


作谷の江戸氏が常陸江戸氏だとすると、下江戸の事は知っているはずであり、400年の間には、一度下江戸に行ってもよいのではないか。下江戸、作谷間はせいぜい40KMでしょう。秋田の味衛門ですら下江戸に行ったのだから。下江戸の那珂さんが作谷の江戸氏のことを全く知らないのは、常陸江戸氏ではないからでしょう。

>「諸士先祖の記」(松平文庫)に「水戸三七実通 本国武蔵 生国常陸 姓平」とありますね。

それは気が付きませんでした。

>私の父に関しては、死ぬまで江戸英雄さんは常陸江戸氏と思っていました、江戸さんも父に「私とあなたは同じ先祖を持っている」と言ってたそうです。

江戸英雄さんは常陸江戸氏と武蔵江戸氏との区別が付かないのではないですか?

>ところで、「私の履歴書」が図書館になく、今県内から取り寄せてもらうことになっていましたので、まだ私は見ていないのです。

そうですか。私は簡単に見られたので、どこにもあるかと思ったのですが。

私も、作谷の江戸氏の系図を見ているわけではないので、作谷の江戸氏が武蔵江戸氏であるという証拠はありません。作谷の江戸氏が常陸江戸氏でないという状況証拠はかなりあります。
 

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