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いつのまにか・・・

 投稿者:江戸です  投稿日:2007年 6月18日(月)16時54分29秒
  いつのまにか「作谷の江戸家」について、いろいろとお調べ頂いている様で大変恐縮です。
珍しい姓なので逆に先祖がわかりやすいと思ってましたが複雑のようですね。
協力できることはさせて頂きます。
 
 

作谷の江戸家について(2)

 投稿者:館主メール  投稿日:2007年 6月17日(日)22時20分38秒
  >つくば市の作谷のところまで、佐竹氏の領地になっていたのでしょうか。

石田光成が秀吉の代官として行った、佐竹54万石の検地の中に筑波郡が入っております。もともと小田氏の領地で、常陸は北条氏から完全に独立しており、関が原以前は佐竹の領地でした。

>それはないでしょう。徳川家の保護の下だから、安心して江戸を名乗ったのでしょう。
佐竹家が、江戸姓をやめさせたのは、幕府を恐れて過剰反応したからだと思います。

徳川家が江戸家を保護した事実があるかは分からないと思います。それは推測の域を出ないと思います。下江戸の那珂家も含め、徳川が保護する考えを持つ理由が、私には分かりません。


>私は、父上が江戸英雄氏に会って、常陸江戸氏ではなく、武蔵江戸氏であると気が付いたのではないかと思います。わざわざ北海道から出てきたので、がっかりされたのではないでしょうか。もし、常陸江戸氏だったら、書き物を残したのではないですか。

私の父に関しては、死ぬまで江戸英雄さんは常陸江戸氏と思っていました、江戸さんも父に「私とあなたは同じ先祖を持っている」と言ってたそうです。


>いや、武蔵江戸氏になってしまった事はないでしょう。結城晴朝公妹の子孫という事で、幕末まで越前松平家から米100俵貰っていたようです。

「諸士先祖の記」(松平文庫)に「水戸三七実通 本国武蔵 生国常陸 姓平」とありますね。これは、本当は本姓藤原で本国常陸を偽って、武蔵平氏を名乗ったと私は解釈しました。違うでしょうか。武蔵平氏は武蔵7党の秩父党で、河越氏、葛西氏と並ぶ秩父平氏ですから、本姓は平なのです。常陸江戸氏は本姓藤原で、武蔵と縁はありません。無論、松平家は水戸家の出自を知っていたでしょうから、なぜそう書いたのか。あるいは、欠かされたのか。

 ところで、「私の履歴書」が図書館になく、今県内から取り寄せてもらうことになっていましたので、まだ私は見ていないのです。

>家紋は、常陸江戸氏も武蔵江戸氏も同じようなものですね。もし、常陸江戸氏の菊一を持っていたら、決まりですが。それだったら、父上が書き残さないわけはないでしょう。

父から具体的なことは一切聞いていないので、わかりません。ただ、味右衛門家と下江戸那珂家のように、4百年ぶりの再会のように嬉しかった、とのみ聞いております。家紋のことも、江戸但馬守は「三頭左巴」や「鳶」も使っていたようですね。ややこしいことに「三頭左巴」は武蔵江戸氏も使っていたのです。これは余談ですが・・・・・・
 

作谷の江戸家について

 投稿者:みわちゃんのおじいちゃんメール  投稿日:2007年 6月17日(日)21時31分40秒
  >1590年はまだ常陸は佐竹氏が全盛の時代であったということが事実としてあります。1602年以降、佐竹氏は羽州へ行きますね。この間、実に12年間は佐竹氏は常陸に君臨していたのです。だとすれば、この江戸氏も武蔵から移住するのは、ちょっと無理がありますね。この時代の武蔵江戸氏は消息不明ですから、その線も皆無ではありませんが。

つくば市の作谷のところまで、佐竹氏の領地になっていたのでしょうか。
私は、つくば市の作谷は北条氏の領地だったのを、北条氏滅亡後、徳川家が貰ったと思ったのですが。桜歴史民俗資料館に聞けば教えてくれるかも知れません。

天正18年(1590年)江戸山城守とその子江戸茂太夫が、現在地に土着して土豪となったようだ。とありますから、最初は1つの家族だけが住んだようです。最初は相当警戒していたらしく、家の周りに堀を作ったりしていたようですが、徳川家により完全に保護されたので、安心して武士を辞めてしまったのではないか。
現在、2-30ぐらい分家があるようです。400年もいればそのぐらいになるのでしょう。私は、下江戸の那珂さんが、分家がないと言っていたのを、不思議に思いました。多分分家を作らない方針でやっていたのでしょう。かなり遠慮しながら住んできたのだと思いました。その点、作谷の江戸さんは徳川氏の保護の下、悠々として生きてこられたのだと思いました。

>この茂太夫という名は通称か官途名か分かりませんが、「江戸茂太夫通○」というように、下に「いみ名」がつきますので、これもまだ決定的条件ではありません。昔は墓に戒名(法名)を書くはずで、むしろ俗名は書かなくてもおかしくありません。法名がなかったのかも知れませんね。だとすれば落ち武者の可能性は大きくなりますね。

確かに、江戸隼人通実という人もいましたから、茂太夫はミドルネームだったかも知れません。江戸英雄さんの伝記に通の字をつけた名前が全然出てこないのです。系図は見ていませんが。江戸英雄さんのおじいさんは茂八郎といったそうだから、茂の字を相伝していたのかと思いました。
江戸山城守というのも、常陸江戸氏には全然出てきませんし。

>いずれにしろ、本名を名乗ったかどうかもわかりませんし、「江戸」という苗字を江戸時代に隠してきたことも考えられます。

それはないでしょう。徳川家の保護の下だから、安心して江戸を名乗ったのでしょう。
佐竹家が、江戸姓をやめさせたのは、幕府を恐れて過剰反応したからだと思います。

>あと、これも物的証拠がないのですが、江戸英雄氏が私の父をわざわざ探し出して、会ったということは、何か確証があったのではないかと思います。江戸英雄さんが武蔵江戸氏を混同したとしても、一般の人で、歴史に詳しくない人であれば、無理もない事でしょう。

私は、父上が江戸英雄氏に会って、常陸江戸氏ではなく、武蔵江戸氏であると気が付いたのではないかと思います。わざわざ北海道から出てきたので、がっかりされたのではないでしょうか。もし、常陸江戸氏だったら、書き物を残したのではないですか。
仲田さんのような常陸江戸氏の研究者も作谷の江戸氏を全然知らないというのはおかしいと思います。

>越前に行った水戸氏は、完全に常陸江戸氏の系図を捨てて、武蔵江戸氏になってしまったのは、みわちゃんのおじいちゃんが送ってくださった資料に明らかです。

いや、武蔵江戸氏になってしまった事はないでしょう。結城晴朝公妹の子孫という事で、幕末まで越前松平家から米100俵貰っていたようです。
私は、福井の地方掲示板に水戸但馬家というトピを作って、関係者の投稿を待っています。

>ですから、まだ白黒つける確証はないのですから、もう少し調べてみましょう。

 額田の江戸さんも掲示板見ていたら、協力をお願いします。

そうですね、又早とちりしないように、資料館に質問してみましょう。

家紋は、常陸江戸氏も武蔵江戸氏も同じようなものですね。もし、常陸江戸氏の菊一を持っていたら、決まりですが。それだったら、父上が書き残さないわけはないでしょう。
 

作谷の江戸家について(2)

 投稿者:館主メール  投稿日:2007年 6月17日(日)16時28分53秒
編集済
  私は、この江戸家が常陸江戸氏ではなく、武蔵江戸氏であると断定するのはまだ早い、と思います。


>作谷の江戸さんは、小田原の北条攻めの頃、秩父あたりに住んでいた武蔵江戸氏が徳川氏の家臣となり、作谷に定住を認められたのではないかと思います。400年も同じ場所に居住したのだから、分家も作り繁栄したのでしょう。

 1590年はまだ常陸は佐竹氏が全盛の時代であったということが事実としてあります。1602年以降、佐竹氏は羽州へ行きますね。この間、実に12年間は佐竹氏は常陸に君臨していたのです。だとすれば、この江戸氏も武蔵から移住するのは、ちょっと無理がありますね。この時代の武蔵江戸氏は消息不明ですから、その線も皆無ではありませんが。

 また、徳川家ないしは、その旗本の家臣となっていれば、庶民となったのはその後ということになりますね。いずれにしても。この頃の家康は関東経営の端緒にたったばかりですから、常陸には手が廻らない時期です。

>江戸氏は、藤原系の常陸江戸氏と平家の武蔵江戸氏とあります。水戸城主だったのは常陸江戸氏で、通の字を相伝します。茂太夫という名はありえない。家紋を調べてみればはっきりすると思います。

 この茂太夫という名は通称か官途名か分かりませんが、「江戸茂太夫通○」というように、下に「いみ名」がつきますので、これもまだ決定的条件ではありません。昔は墓に戒名(法名)を書くはずで、むしろ俗名は書かなくてもおかしくありません。法名がなかったのかも知れませんね。だとすれば落ち武者の可能性は大きくなりますね。

 いずれにしろ、本名を名乗ったかどうかもわかりませんし、「江戸」という苗字を江戸時代に隠してきたことも考えられます。

>(2)の伝説は、水戸の江戸家があることを知って、推察したのだと思います。
家紋についてもう少し調べてみます。

 伝説というのも、元々は事実があって発生する場合が多いので、これも一概に否定はできません。


 あと、これも物的証拠がないのですが、江戸英雄氏が私の父をわざわざ探し出して、会ったということは、何か確証があったのではないかと思います。江戸英雄さんが武蔵江戸氏を混同したとしても、一般の人で、歴史に詳しくない人であれば、無理もない事でしょう。

 越前に行った水戸氏は、完全に常陸江戸氏の系図を捨てて、武蔵江戸氏になってしまったのは、みわちゃんのおじいちゃんが送ってくださった資料に明らかです。ですから、まだ白黒つける確証はないのですから、もう少し調べてみましょう。

 額田の江戸さんも掲示板見ていたら、協力をお願いします。
 

作谷江戸家について

 投稿者:みわちゃんのおじいちゃんメール  投稿日:2007年 6月17日(日)14時55分1秒
  作谷の江戸さんの投稿で、

はじめまして  投稿者:江戸です  投稿日:2007年 5月17日(木)23時55分45秒

(1)つくばの作谷には江戸という名字が多いです。有名な方では三井不動産の社長も勤めた江戸英雄さんも同じ出身地です。

(2)もともと水戸市あたりに住んでいたが佐竹に追いやられ結城のほうに逃げたようです

と言っています。
私は、(2)から、重通の子孫だろうと考えたのですが、早とちりだったようです。

江戸英雄さんの伝記によると、
江戸氏は、古くから常陸一円で活躍した武家であったが(3)、天正18年(1590年)江戸山城守とその子江戸茂太夫が、現在地に土着して土豪となったようだ。(中略)
承応3年(1654年)に死んだ江戸茂太夫の墓が判読される(中略)
この江戸氏と大田道灌以前江戸を占拠して開発に当たっていた江戸氏(4)とルーツは同じだと思うが、今までの資料では分からない。

江戸氏は、藤原系の常陸江戸氏と平家の武蔵江戸氏とあります。水戸城主だったのは常陸江戸氏で、通の字を相伝します。茂太夫という名はありえない。
家紋を調べてみればはっきりすると思います。

江戸英雄さんは、二つの江戸家が、ごっちゃになっているようで、(3)は、
常陸江戸氏で、(4)は武蔵江戸氏です。

作谷の江戸さんは、小田原の北条攻めの頃、秩父あたりに住んでいた武蔵江戸氏が徳川氏の家臣となり、作谷に定住を認められたのではないかと思います。
400年も同じ場所に居住したのだから、分家も作り繁栄したのでしょう。

武蔵江戸氏の子孫が、東京の世田谷の喜多見で、2万石の大名喜多見家として取り立てられました。

>また、掲示板に投稿していただいた江戸さんの家に伝わる伝説はどのように解釈すればいいのでしょうね。

(2)の伝説は、水戸の江戸家があることを知って、推察したのだと思います。
家紋についてもう少し調べてみます。
 

作谷江戸家について

 投稿者:館主メール  投稿日:2007年 6月16日(土)21時22分48秒
  >「日本経済新聞社発行 昭和の経営者群像 5巻 私の履歴書」 はどこの図書館にもあると思いますが、その中の江戸英雄の項に出ています。


 もし、よろしければもっと具体的にレポートいただければと希望します。私の父は、「江戸英男さんと会い、お互いの系図を見せ合った」と言ってましたので、てっきり江戸英男さんは、私は同じ常陸江戸氏の子孫とばかり思っていました。

 また、掲示板に投稿していただいた江戸さんの家に伝わる伝説はどのように解釈すればいいのでしょうね。

 みわちゃんのおじいちゃんの意見をお聞かせください。
 

作谷の江戸さんへ

 投稿者:みわちゃんのおじいちゃんメール  投稿日:2007年 6月15日(金)14時58分52秒
  作谷の江戸さんについて、つくば市の桜歴史民俗資料館に調べて頂いたのですが、残念ながら、常陸江戸家とは関係ない別の江戸家のようです。

館主さんのお父上は、江戸英雄さんに会ったそうですが、その時に別の江戸家である事は気がついたのでしょう。何も報告は残さなかったわけです。

「日本経済新聞社発行 昭和の経営者群像 5巻 私の履歴書」 はどこの図書館にもあると思いますが、その中の江戸英雄の項に出ています。
 

ひづめ様

 投稿者:みわちゃんのおじいちゃんメール  投稿日:2007年 6月 9日(土)22時49分29秒
  江戸家発祥の地である下江戸の江戸城もぜひ散歩して下さい。
江戸城については、那珂町史の研究12号32ページに高橋裕文氏が紹介しています。
那珂町史の研究は那珂歴史民俗資料館にあります。

残念ながら、この資料には、江戸氏系図に不足があります。
最後から2番目の藩主忠通の弟、通済には、長男の長門守通広があり、それが私の先祖です。通広は、小田原の北条攻めの時、北条に内通した責任を取り自刃しました。実際には、江戸本家を守るため、一人で責任を取ったのだと思います。
 

Re:こんなのを見つけました。 2

 投稿者:ひづめ  投稿日:2007年 6月 9日(土)12時47分14秒
  初めまして
 「美浦村お散歩団」「藪ログ」のひづめといいます。つくば市の江戸家についてコメントをいただきあ
りがとうございました。私の記事は『筑波町史 上巻』の解説をそのまま紹介しただけのものですが、実際
周囲を散策しながら土塁上に巡らされた趣のある板塀を見て、中世の館の姿を彷彿とさせる佇まいだと感
じました。
 佐竹に追われた江戸氏の一部が筑波のこの地に土着したとは大変興味深い話です。それ故にその一画か
ら中世的雰囲気が漂ってくるのでしょうかね。

 今後ともよろしくお願いいたします。

http://www.osanpodan.com/

 

福井の水戸家

 投稿者:みわちゃんのおじいちゃんメール  投稿日:2007年 6月 8日(金)23時04分59秒
  福井市立郷土歴史博物館に、福井の水戸家について問い合わせたところ、「江戸家(水戸家)に関しまして「福井市史」の資料編より江戸時代の初めの部分と、「福井県史」の資料編より幕末の部分を調べましたところ、少し出てまいりました。」という返事が来ました。

幕末までお家が存続していた事は分かります。

松平文庫の諸士先祖の記の水戸の項に
水戸三七実通(宣通)ー水戸内匠朝祇ー水戸平兵衛朝栄ー水戸市之進朝兼
とあり、朝栄は養子であった。

松平文庫の嘉永5年(1852年)給帳に
水戸但馬 米百俵とある。他の人は、高千石とか書いてあり、米百俵が多いか少ないかは分からない。

幕末まで、お家があったのだから多分子孫は現存しているだろう。
子孫の方、又、子孫をご存知の方はぜひ名乗り出て頂きたい。
 

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