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Gabriel Voisin-2

 投稿者:玄人  投稿日:2011年 1月 9日(日)11時01分19秒
返信・引用 編集済
  前回に引き続きガブリエル・ヴォアザン氏について投稿します。飛行機について書く上でどうしても外せないのが、1903年のアメリカのライト兄弟による初飛行です。しかしライト兄弟が初飛行した偉業について、アメリカで公式に認められたのは何と1942年だそうです。スミソニアン協会のチャールズ・ウォルコット会長が彼らの偉業を認めず、更にグレン・カーチス氏(航空機メーカー・カーチス社の創業者)との特許論争で失意のうちに兄弟は世を去りました。これらの経緯について、詳しくは下をご覧ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%88%E5%85%84%E5%BC%9F

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%B9

さてヴォアザン氏に話を戻しますが、彼の活躍したフランスの首都は「花の都パリ」と言うだけあって世界中からあらゆる人々が集まります。自動車の世界でもシトロエンでデザインを担当したフラミニオ・ベルトーニ氏、エンジン担当のワルテル・ベッキア氏はイタリア人でした。航空機の分野でもサントス・デュモン氏はブラジル人です。彼は飛行船を発明し、続いて飛行機を開発。完成できなかったもののヘリコプターも手掛けました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%A2%E3%83%B3

ガブリエル・ヴォアザン氏は1903年、ルイ・ブレリオ氏と共同でブレリオ・ヴォアザン社を設立しました。しかし1906年、ロンドンの新聞デイリー・メール紙が宣伝目的でドーバー海峡横断飛行に賞金1,000ポンドを掛けたことから、達成競争に参戦するためヴォアザン氏と袂を頒ち、単独で会社を設立。各種飛行機の設計・製作を手掛け、ブレリオ XI(Blériot XI)機は1909年7月25日、カレー市郊外からドーバー城まで所用時間36分55秒でドーバー海峡初横断に成功しました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%AA%E3%82%AA

ガブリエル・ヴォアザン氏は1906年、弟のシャルル・ヴォアザン氏と世界初の商業民間航空機メーカーを設立します。当初はブレリオ氏の開発した、前にプロペラをつけた牽引式の飛行機をつくったもののうまくいかず、1907年に主翼にプロペラを後ろ向きに取り付けた推進式のドラグランジュ No. 1を製作します。この機は弟シャルル・ヴォアザン氏の操縦で60mの飛行に成功。続くドラグランジュ No. 2はヨーロッパ製の飛行機として、初めて1km以上を飛行した機体となりました。パリの南西にあるイシ・レ・ムリノー(Issy Les Moulineaux)飛行場の上空を周回飛行したのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AF%E3%82%B6%E3%83%B3

ヴォアザン機を購入して自ら操縦し、世界記録を樹立したイギリス人のアンリ・ファルマン氏は1908年自ら航空機メーカーを設立。ここに弟のモーリス・ファルマン氏も合流します。彼らの製作した飛行機が、この1910年製のファルマン機(アンリ・ファルマン号)だったのです。1910年12月19日、徳川家の末裔、徳川好敏大尉が代々木練兵場上空を飛行しました。日本はフランスに飛行機を学んだのです。詳しくは下のリンクをご覧ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3_III

さて、ファルマン氏は操縦士を養成するために飛行学校を設立しますが、ここの学生にホルヘ・チャベス氏がいました。彼は事故でなくなりましたが、出身国のペルーでは国家の英雄として称えられているそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%99%E3%82%B9

さてヴォアザン氏は1910年に水上機を開発します。これの貴重な動画がYoutubeで見られますので、リンクさせていただきます。
http://www.youtube.com/watch?v=TMLMQcLGZ_I

レオン・ルバッソール氏も航空機のパイオニアですが、ヴォアザン機は彼の手掛けたV8、50馬力ガソリンエンジンを採用していました。しかしルバッソール氏は下記の飛行機を手掛けるもののうまくいかず、1911年に倒産しました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88_IV

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E8%BB%8D%E7%94%A8%E5%8D%98%E8%91%89%E6%A9%9F

次回はアンドレ・ルフェーブル氏が航空機メーカーとしてのヴォアザン社に入社した頃の航空機について紹介します。終わりにシトロエンDSの前回の続きのYoutube動画をリンクしておきます。前回と逆になりましたが、フランスでDSuper5を購入してイギリスに持ち込み、整備と登録する番組ですな。こういう面白いテレビ番組がない日本のテレビ業界は本当に終わっています。いずれ1950~60年代みたいに、番組を輸入して日本語訳をつけて放映するだけになりそうですね。
http://www.youtube.com/watch?v=bIQxzhUwjLc
http://www.youtube.com/watch?v=uOVi1rm0PFU&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=zE-3xOxWnpA&feature=related
 
 

Gabriel Voisin-1

 投稿者:玄人  投稿日:2011年 1月 1日(土)14時25分55秒
返信・引用 編集済
  管理人さま、みなさま、あけましておめでとうございます。昨年はいろいろお世話になりました。今年もよろしくお願いします。

新年早々ではありますがアンドレ・ルフェーブル氏の師匠、ガブリエル・ヴォアザン氏について触れたいと思います。まず彼の経歴等について、いつものウィキペディアから紹介させていただきます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%82%A2%E3%82%B6%E3%83%B3

彼は1880年生まれですから、アンドレ・シトロエン氏とは2歳違うことになります。当時、新しい機械が次々と発明され社会が大きく変わりつつありました。あの発明王エジソン氏が大活躍した時代です。下をご覧ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%B8%E3%82%BD%E3%83%B3

電信、電話、蓄音機、電灯など主として電気関係の機械や器具を次々と発明し、また彼の事業は海を越えてフランスにも波及し、シトロエンのラジオでも有名なコンチネンタル・エジソン社も設立されます。この会社の日本語で書かれた資料がなかなか見つかりませんが、下の資料によりますと電力事業を営んでいたとか。
http://www.asia-u.ac.jp/keizai/kiyou/keizai_kiyou_26-1.pdf

さてガブリエル・ヴォアザン氏が航空機の発明に意欲を燃やすようになったのは、彼以前にもフランスが航空機のパイオニアを数多く輩出したことが挙げられます。

☆モンゴルフィエ兄弟。熱気球を発明し、世界で初の有人飛行を行いました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A8%E5%85%84%E5%BC%9F
http://www12.plala.or.jp/jsr/sub8.htm

☆ジャン=マリー・ルブリ氏(Jean-Marie Le Bris、1817年 - 1872年)は1856年12月、操縦装置のついたグライダーで飛行しました。記録では100mの高さまで上昇し、200mを飛行したそうです。2番目の機体を撮影した1868年の写真が現存しており、航空機の写真としては最古なのだとか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%AA

☆フェリックス・デュ・タンプル氏(Félix du Temple de la Croix、1823年7月18日 - 1890年11月4日)は、1874年に大型の飛行機を完成させました。翼幅は13mもあり、アルミニウムでつくられた機体は80kgの重さでした。この飛行機は彼が特許を取得した軽量で強力な蒸気機関を採用し、斜面によって加速してから自力での離陸を成し遂げ、短時間の滑空に続いて軟着陸に成功。これが歴史上、世界最初の動力飛行成功例だと認められているそうです。実機はパリ万国博覧会 (1878年)で展示されました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AB

☆クレマン・アニェス・アデール氏(Clément Agnès Ader、1841年4月2日 - 1925年3月5日)は19世紀末に蒸気機関を積んだ飛行機「エオール」と「アヴィヨン」を製作しました。1890年10月9日、エオールは約20cmの高度で約50メートルの距離を飛んだそうです。アメリカのライト兄弟より13年も前に、史上初の、補助なしの動力離陸を成功させたそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%AB

これだけの業績を誇るフランスが、アメリカに頭を下げるわけがありませんよね。自信にあふれた在日フランス大使館の紹介記事をお読みください。
http://www.ambafrance-jp.org/spip.php?article4064

次回はガブリエル・ヴォアザン氏の航空機における功績について投稿します。
終わりに、シトロエンDSを実際に修理しているシーンが見られる、欧州のテレビ番組を紹介しますので、また参考にしてください。
http://www.youtube.com/watch?v=1hr7_WcauH0&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=-79FRSwgjQo&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=B_X2tWG1k58&feature=related
 

シトロエンの真髄について

 投稿者:玄人  投稿日:2010年12月25日(土)12時58分4秒
返信・引用 編集済
  管理人さま、みなさま、こんにちは。コメントいただきまして、ありがとうございます。当方、どうも今の自動車についていけないと言うか、規制でがんじがらめになって「つまらなくなっている」現状を憂慮しているのですが、今回はシトロエンの神髄に迫った内容にしたいと思います。

シトロエンの技術者と言えばアンドレ・ルフェーブル氏があげられます。世界最高峰を極めた彼ですが、今でこそ有名だと言えるものの昔は誰も彼のことを知りませんでした。創業社長アンドレ・シトロエン氏が失脚し会社はミシュランタイヤの所有になりましたが、ミシュランタイヤの方針で徹底的な秘密政策を採ったために、シトロエンの生み出す名車の作者が誰なのか全く分からない状態が長年続きました。しかし、アメリカは世界各国に張り巡らせた情報網でアンドレ・ルフェーブル氏の存在を突き止めたそうです。

当方がシトロエンの情報を検索して見つけたブログがあります。何とポルトガル語で書かれており、何が何だかさっぱり分かりません。しかし今は翻訳ソフトがあります。機械翻訳なので書いた人の心情まで翻訳できませんから変な文章になりがちですが、この部分は想像して補う必要があります。
http://autoentusiastas.blogspot.com/2010/06/as-leis-de-voisin-e-morte-da-citroen.html

http://www.google.com/translate?u=http%3A%2F%2Fautoentusiastas.blogspot.com%2F2010%2F06%2Fas-leis-de-voisin-e-morte-da-citroen.html&langpair=pt%7Cja&hl=pt&ie=UTF8

1955年10月に新型車シトロエンDS19がパリサロンでデビューします。極めて先進的かつ革新的な自動車シトロエンDS19は世界から注目される画期的工業製品でしたが、その直後にパリにあったアンドレ・ルフェーブル氏の自宅に2人のアメリカ人が訪ねてきました。彼らは最初はジャーナリストと自称していました。その中で彼らはアンドレさんに対し「貴殿は24年前(1931年)にヴォワザン社が倒産して他社に移る前は、自らの誇りと会社への忠誠心をもって仕事に当たっていましたね。それなのに今は会社に飼い殺しにされているではありませんか。生活も裕福ではなさそうですし」と部屋の調度品を見て話し始めました。(注・この翻訳で正しいか分かりません)

アンドレ・ルフェーブル氏は、この2人が何らかの意図を持って近づいてきたと気がついたでしょう。彼らは次に、このように提案したのです。「よいお知らせがあります。我々は世界最大の自動車メーカー、ゼネラル・モーターズからやってきました。実は当社の取締役会で、貴殿を招聘することを決定しました。当社はシトロエンとは比較にならないだけの年俸を保証します。どうぞご決断を!」と迫ってきたのです。

これに対しアンドレ・ルフェーブル氏は激怒し、ソファーから立ち上がって「きっぱりとお断りします!」と彼らに言明しました。彼らは「どうしてですか、今よりよい生活ができるのですよ」と説得しましたが、アンドレ・ルフェーブル氏は「お金のことなど問題ではありません。私はシトロエンのために、よりよい自動車をつくることが使命なのです」(注・完全に当方の想像の文章になっています。でも、アンドレさんの心情はこれだと思います)

師匠ガブリエル・ヴォアザン氏の会社が世界大恐慌のあおりを受けて1931年に倒産し、彼とともに働いてきたアンドレ・ルフェーブル氏は失職します。やむなくルノーに移るものの、あちらの社長は古臭い価値観の持ち主で製品は時代遅れ。アンドレさんは新しいアイデアを提案するものの全て却下。彼はルノーの会社に失望していました。その時、ガブリエル・ヴォワザン氏の友人のアンドレ・シトロエン社長が「うちで画期的な自動車を開発しているんだが、技術陣が今ひとつで計画が進まなくて困っているんだ。誰かいい人を紹介してくれないか」と相談を持ちかけられました。ヴォワザン氏は「うちに在籍したアンドレ・ルフェーブル君はどうだろう。私の片腕として長く仕事を一緒にしてきたし、私以上のアイデアを次々と出してくる。彼ほどの人物は他にいないと思うよ」と、アンドレ・ルフェーブル氏を紹介してくれたのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AC%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%AB

ヴォワザン氏の弟子だったルフェーブル氏は、アンドレ・シトロエン社長に自らを紹介してくれたことを一生感謝していたようです。そして師匠との約束を一生守り続けました。アンドレ・ルフェーブル氏ほどの人物なら、より多い報酬を求めて自動車メーカーを渡り歩くこともできたはずです。事実、歴史上の著名な技術者の多くは転職を繰り返してきました。しかし彼はそうはしなかった。彼は師匠との約束が何ものにも代えられないと思っていました。だから一生シトロエンに奉職したのです。1958年に彼は右半身が不随になってしまいましたが、それでも左腕でペンを握って設計図を描き、シトロエンに送り続けたのです。何という高尚な人物でありましょうか!

私は感動しました。これらの内容は確か1975年に二玄社から出版され、現在は絶版になっている「オートモビルデザイン」に書かれていたように思います。当方、引越した時に当時の本を処分してしまい、今では書いた内容を少ししか覚えていませんが、その中に1964年7月頃、あるジャーナリストがガブリエル・ヴォワザン氏の邸宅を訪問した時に、アンドレ・ルフェーブル氏が亡くなる少し前に書かれた、彼からの手紙を見せてくれたそうです。内容を読みたいものですが、師匠への感謝が書かれていたことは想像できます。

ところでシトロエンDSと言う自動車ですが、優れた操縦性を実現するために徹底した低重心設計にしていますが、目的を実現するために乗り降りの便を犠牲にして深いサイドシルを採用しているなど、妥協をしない割り切った設計思想なのは、アンドレ・ルフェーブル氏の人柄や性格を投影した工業製品だと思います。これがシトロエンの真髄ではないでしょうか。今なお人々を感動させ、新たなファンを獲得する自動車など、そうあるものではありません。

オーストラリアABC放送のシトロエンDS紹介番組です。アンドレ・ルフェーブル氏の写真が2分2秒くらいに出ます。シトロエンDSは英語圏では「Godness」と呼ばれています。「絶世の美女」という意味です。
http://www.youtube.com/watch?v=Ln61z_S34LI

こちらはポルトガルのクラブみたいです。音が大きいので注意してください。
http://www.youtube.com/watch?v=fNeJbExc5T4

ところで本日12月25日は師匠ガブリエル・ヴォアザン氏の命日(1973年没)です。次回より師匠の手掛けた飛行機について書きますので、どうぞお楽しみに。
 

いつもありがとうございます。

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月25日(土)07時36分45秒
返信・引用
  玄人さん いつも書き込みありがとうございます。
たくさんのリンクをこれからじっくり拝見しようと思います。

タトラも興味深い ブランドですよね 20年代には フロントエンジン
空冷フラットツインなんかもあって その後リアエンジンになるのだと思い
ます。
 

その他のリアエンジン車

 投稿者:玄人  投稿日:2010年12月19日(日)21時10分54秒
返信・引用 編集済
  最近の投稿内容がシトロエンDS/IDから離れたものになっておりますが、次回以降の話の流れから判断して今回、どうしても別のメーカーの車種について触れておかないと「物語が成り立たない」状況になっておりますので、前回のタトラT603に関連して同時代のリアエンジン車を今回、取り上げます。その名はシボレー・コルヴェアであります。当掲示板を訪問される方々ならご存知でしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%9C%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%82%A2

1950年代、当時の西ドイツで生産されるリアエンジン車、フォルクスワーゲンが大ヒット作となり世界最大の自動車市場であったアメリカにも続々と押し寄せました。戦勝国だった英米が工場設備を接取できたにも関わらず、リアエンジン方式の「変な自動車」であるフォルクスワーゲンを彼らは無価値と判断し、接取から免れたのです。ところが数年後、あの「変な自動車」がアメリカで年々売り上げを伸ばし、ビッグ3にとって脅威になりはじめました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%971

当時、世界最大の自動車メーカーであったGMはフォルクスワーゲン・ビートルの大ヒットに対抗する必要に迫られました。売れる小型車を出さねばならない。それはライバルのフォードもクライスラーも同様でした。小型車に転向したスチュードベーカーが悪戦苦闘し衰退していく過程を他のメーカーも見ていました。名門パッカードもろとも没落していく様は、戦後フランスの高級車メーカー衰退にも重なります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC

1950年代のコンパクトカーブームに対するアメリカ・ビッグ3の回答として1960年、GMからシボレー・コルベア。フォードからフォード・ファルコン。クライスラーからプリマス・ヴァリアントと言った小型車が相次いで出ました。しかし車体の大きさがシトロエンDS19とほぼ同じで、欧州では大型乗用車の範疇に入るものでした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88

シボレー・コルヴェアは空冷水平対向6気筒エンジンと4輪独立懸架(後輪はスウィングアクスル)を採用し、これにアメリカ車らしい「大きく流麗なボディ」を組み合わせた製品でした。大きさから当時のタトラT603に迫っており、年産20万台を6年間も記録するヒット作になっていました。写真はステーションワゴンですが、前回のタトラ救急車に似ていますね。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bf/1961_Chevrolet_Corvair_Lakewood_500.jpg
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ae/1962_Chevrolet_Corvair_Lakewood_station_wagon.JPG

この状況は1960年代のラルフ・ネーダー氏の率いる消費者運動により一変します。彼らの自動車排斥活動はリアエンジン車の危険な操縦性に向けられました。この経緯については、GMの副社長までなりながら退社したジョン・Z・デロリアン氏の書かれた「晴れた日にはGMが見える」に詳しく書かれています。要約しますと、スウィングアクスル方式のリアエンジン車だったコルヴェアはコーナリング時の横転事故の危険があり、アンチロールバーの装着が安全上必要だったのですが、GMは僅か6 USドルで済む対策費をけちって、タイヤ空気圧を前輪に低く、後輪に高くするようタイヤ空気圧を指定しました。これが購入者と整備士の誤解を招き、前後輪を同じタイヤ空気圧に充填してしまうことが起き、これが事故に繋がったというのです。

シボレー・コルヴェアは1965年型で後輪サスペンションを一新しましたが時既に遅く、危険な車のレッテルを貼られたことから販売は急速に減少。それでなくても燃焼式ヒーターやエンジンの保守の問題もあって、一般のアメリカ車と構造の異なるシボレー・コルヴェアはディーラーも整備士も敬遠する車種になりつつあったのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%B3

このラルフ・ネーダー氏の消費者運動は日本にも波及し、ホンダN360を欠陥車として攻撃するユーザーユニオン事件が発生。日本自動車ユーザーユニオンたる団体が、当時のベストセラーカーであったホンダN360に「操縦安定性の面で重大な欠陥がある」と、未必の故意による殺人罪で創業社長本田宗一郎氏を東京地方検察庁に告訴した事件でした。捜査の結果、本田宗一郎氏は不起訴となりましたが、これに対しホンダは法外な示談金を要求したユーザーユニオンを恐喝で告訴し、ユーザーユニオンの代表者2名が恐喝の疑いで東京地方検察庁特別捜査部に逮捕されました。判決が確定したのは1987年1月のことであり、十数年の年月を要したのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BBN360

この事件の衝撃は相当なものでした。日本では前輪駆動に対する偏見と差別がなかなか抜けず、1980年代になっても前輪駆動車を嫌うユーザーがかなりいました。シトロエンやフランス車に対する偏見は地方で特に顕著で、当方は長年「変人」と見なされてきました(爆)。しかし我々は勝った!世界中の自動車が、シトロエンの前輪駆動や空力ボディを模倣しているではありませんか!盛り上がったところで次回はシトロエンの話をやりますので、どうぞお楽しみに。
 

Tatra T603 続編

 投稿者:玄人  投稿日:2010年12月12日(日)12時31分42秒
返信・引用 編集済
  前回のタトラT603の続きです。英語で詳しく解説されたサイトがありますので、原文と日本語翻訳の両方で紹介します。これを見ますとタトラT603の前後輪重量配分について、前880kg、後1080kgになっています。後輪駆動車の場合、前後の重量配分が45:55になっているのが理想とされており、開発段階で完成しつくされた製品であったことが証明されております。逆な表現をすると改良の余地がないため、1975年の生産終了までヘッドランプ部分が変更されたくらいしか「いじれなかった」ようです。

http://www.tatra.demon.nl/cars_history_T603.htm

http://translate.google.co.jp/translate?hl=ja&langpair=en%7Cja&u=http://www.tatra.demon.nl/cars_history_T603.htm

タトラについて書かれた、日本語で読める文献は少ないのですが、下記で紹介するブログは貴重な解説です。リンクしますので読んでみてください。
http://golf4.blog65.fc2.com/blog-entry-93.html

現在は東西に分裂したチェコとスロバキアですが、中欧に位置する国々で冬はとても寒いです。今冬は異常気象のせいもあって異様に寒く、朝方は-20℃とか聞きます。もともと冬は寒い地域ですが、タトラは空冷エンジンでしかも後方に配置されていることから暖房が大きな問題です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E5%86%B7%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%B3

http://ejss.co.jp/heater3.html
http://www.east-call.co.jp/heater.html

タトラにはガソリン燃焼式ヒーターなるものが備えられていました。これで暖房するのですが、これに関連してシトロエンDSにも1966年9月から1年間だけ-20℃に対応できるガソリン燃焼式ヒーターがオプションで用意されました。こちらは1年で中止されています。このヒーターは最悪の場合燃える危険があり、これが取りやめの原因になったような気がします。

シトロエンDSと同じく長期生産されたタトラT603ですが、1967年に魅力的なデザインの試作車がつくられたようです。ウィキペディアの英語版にありましたので、リンクします。フォルクスワーゲン411を大きくしたような感じです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Tatra_603
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Tatra603X.JPG

更に救急車もありました。
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Tatra_603_ambulance.JPG

排ガス対策や安全対策、廃棄時のリサイクルの問題などで自動車を取り巻く環境は厳しくなるばかりです。もうタトラのような自動車も出ないでしょう。技術の平均化が強いられる現在の自動車に子供達は興味を持たなくなってしまいました。これ、自動車の未来を暗くする原因です。シトロエンDSにタトラT603。全く正反対のアプローチで競うことにより、自動車界全体の魅力を高めていった時代は戻ってこないとしたら、この先が心配です。
 

Tatra T603

 投稿者:玄人  投稿日:2010年12月 4日(土)08時25分8秒
返信・引用
  今回は前回予告したタトラT603について投稿します。この車種については、ウィキペディアに秀逸な解説が掲載されております。当方の下手な文章など書くだけ無駄ですので、まずは読んでみてください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%88%E3%83%A9_(%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A)
http://www.youtube.com/watch?v=6Hl-zPfJD_0&feature=related

文章からの引用になりますが、終戦後の1945年、社長のハヌシュ・リングホッフェル氏(Hanuš Ringhoffer)らリングホッフェル家はナチス協力者として追放され、会社は同年10月の主要重工業企業国有化でタトラ国営会社(Tatra, n.p.)に改組されたと記載されています。フランスでもルノーの創業者が投獄され死亡。会社は国有化されましたが、同じような運命を辿っています。これについて、新たなる事実が同じくウィキペディアに書かれています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%BC_(%E5%AE%9F%E6%A5%AD%E5%AE%B6)

1971年刊行の二玄社刊「世界の自動車ルノー」には明らかにルイ・ルノーは対独協力をしていたと書かれていましたが、誤っていたのですね。タトラに話を戻すと、先進技術の積極的な採用で欧州では「西のシトロエン」「東のタトラ」と呼ぶべき、相撲に例えるなら東西の横綱でありました。戦前のタトラには優秀な技術者ハンス・レドヴィンカ氏がおられ、彼がシトロエンのアンドレ・ルフェーブル氏に相当する役割を担っていたようです。
http://blog.goo.ne.jp/yogorouza_1979/e/c250d417cab43a4e53b91ecf0c8ef923
http://blog.goo.ne.jp/yogorouza_1979/e/0cabe162df293a1cd14f775b57580adc?fm=rss

リンク自由だそうなので勝手にブログを紹介させていただきました。当方が書くより理解しやすいと思います。興味深いのは1930年代の動きで、革新的な製品を出すに当たり両社はまったく別の方向に進化していることです。両社とも空力ボディを採用していますが、シトロエンの前輪駆動に対し、タトラはリアエンジン方式。1936年に完成したタトラT87は排気量の面でシトロエン15CV-6に相当すると思われますが、最高速が160km/hも出たとか。15CV-6は130km/hですから、驚異的な高性能車と言えそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%88%E3%83%A9_T87
http://www.youtube.com/watch?v=cvSKFrMcVUE&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=3fjWTf9qcr4&feature=related

シトロエン11CVと同格のT97は1937年に出ましたが、空冷の水平対向エンジンを採用している以上に驚くのがスタイリング。フェンダーが独立していない戦後型のフルワイズを先取りしております。しかも後輪をカバーで覆っており、これが戦後のシトロエンに影響を与えた可能性もありそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%88%E3%83%A9_T97
http://www.youtube.com/watch?v=Z6kDGgBIVrs

しかしタトラの乗用車は政治に翻弄されてヒトラーによる生産停止命令や、戦後は東側陣営に入ったことから計画経済に組み込まれ、大衆車はシュコダに担当させられるなど運のないメーカーでした。大量生産で世界各国に輸出されたシトロエンと違い、共産圏の政府公用車に限定されたタトラは知名度が極めて低く、本当に鉄のカーテンの向こう側の自動車でした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%B3

さてシトロエンDS19とほぼ同時代に登場したタトラT603ですが、勝手にリンクさせていただきますので、Youtubeと同じくお楽しみください。
http://blog.goo.ne.jp/yogorouza_1979/e/afc594c9d3448d2453b41a46d9c33767
http://www.youtube.com/watch?v=UrWO00kjHxg&feature=fvst
http://www.youtube.com/watch?v=sjnCasV0LQw&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=J8fNpTSLi80

かつてはフォルクスワーゲン、ルノー、フィアット等、世界の大メーカーにこぞって採用されたリアエンジン方式ですが、今ではすっかり衰退してしまいました。やはり問題は操縦性でしょう。Youtubeの動画でも、カーブで後輪が外側に流れるところが散見されましたが、不特定多数の人々が幅広く使う民生品としての自動車としては、基本的にアンダーステアになる前輪駆動の方が操縦が安全なのであり、前輪駆動を選んだシトロエンの正しさが証明されたのではないでしょうか。
 

Professorへのインタビュー

 投稿者:玄人  投稿日:2010年11月27日(土)14時08分18秒
返信・引用 編集済
  管理人さま、みなさま、こんにちは。いつも書かせていただき、ありがとうございます。今回はyoutubeで見つけた貴重な動画を紹介します。あのシトロエンDSの油圧システムを開発したProfessor、ポール・マジェス氏へのインタビューです。上から4つめの動画です。ここのナレーションで「ポール・マージュ」と発音しておりますので、今回から彼の表記をポール・マージュ氏と訂正させていただきます。

http://www.youtube.com/watch?v=lWmG6meljPk&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=xQ2AgiS4JSg&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=l5ajhhRt7nU&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=HcPG7n21M98&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=D4EoDG5ZMzk&feature=related

アンドレ・ルフェーブル氏もフラミニオ・ベルトーニ氏も1960年代に亡くなられ、生の姿を見た人は少なくなりつつありますが、Professorは1999年までおられました。生前の貴重な動画を見る限り、確かに老教授の雰囲気があります。この動画を投稿された方ですが、クロアチアの方のようです。クロアチアといえば分裂したユーゴスラビア連邦の一角を占めていた国です。シトロエンの愛好家団体がありますので、下にリンクします。
http://www.citroenclub.hr/

ユーゴスラビアといえば、かつてシトロエンDSを現地生産していたそうです。これについて、いつものcitroenetから関連ページを紹介します。
http://www.citroenet.org.uk/
http://www.citroenet.org.uk/foreign/jugoslavija/tomos.html
http://www.citroenet.org.uk/foreign/jugoslavija/tomos1.html
http://www.citroenet.org.uk/foreign/jugoslavija/cimos.html
http://www.citroenet.org.uk/foreign/jugoslavija/cimos1.html
http://www.citroenet.org.uk/foreign/jugoslavija/cimos2.html
http://www.citroenet.org.uk/foreign/jugoslavija/diana6.html
http://www.citroenet.org.uk/foreign/jugoslavija/diana6l.html
http://www.citroenet.org.uk/foreign/jugoslavija/diana6lc.html

日本では二玄社から出ている翻訳本original citroen dsの巻末資料に、ユーゴスラビアで約750台が生産されたシトロエンDSですが、これの背景についてほとんど触れられていません。そこで当方が推理しましょう。当時のユーゴスラビアはチトー大統領が指導していました。彼についてのウィキペディアの記事です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%B7%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%88%E3%83%BC

彼は軍人出身の政治家であり、東側陣営に入らず独自の路線「非同盟主義」を貫きました。また非常にカリスマ性のある指導者でしたが、これらの特色がフランスのドゴール大統領と共通しています。ドゴール大統領も軍人出身の政治家であり、西側諸国でありながら反アングロサクソン路線で米英に対抗し、イギリスのEEC加盟を頑として認めなかったことは有名です。詳しくはリンク先の解説をお読みいただければ、当方の言っていることに共感してもらえると思います。

1960年代、東側陣営の各国政府は政府公用車としてチェコスロバキア製のタトラを使用していましたが、ユーゴスラビアは東側とは一線を画していたことから西側諸国に接近。ここで西側の一員でありながら独自路線のフランスと共通点が多いことに気付き、シトロエンの車種を現地生産することで合意したのではないでしょうか。

次回はシトロエンDSのライバルと思われるタトラT603を取り上げます。ご期待ください。
 

Henri Chapron 続編

 投稿者:玄人  投稿日:2010年11月21日(日)10時23分59秒
返信・引用
  Henri Chapronについて中途半端になってしまいましたので、今回は続きを投稿します。現在は乗用車といえばモノコック構造ですので全部自動車メーカーでつくってしまうのですが、バスとかトラックはボディや荷台の部分を車体メーカーで手掛けています。トラックでは、いすゞ自動車の製品に「日本フルハーフ」とか書いていますが、これが相当します。バスだと、戦後GHQが日本の航空機生産を禁止した頃に三菱重工や富士重工(中島飛行機)や川崎航空機がバスの車体に進出しました。これで有名なのがシトロエン傘下時代のベルリエさんところのバスを川崎航空機(IK Coach)が真似したこと。これを見ると一人で舞い上がっていたものです。(誰も知らないものだから、一人でニヤニヤしていました。)

Henri Chapronはフレーム別体構造時代の乗用車でオートクチュールを営んでいたと言えましょう。当時の高級車Delahayeに独自のボディを架装する。同時期の同業者にフラネイとかソーチック等がありました。当時の作品をご覧ください。
http://www.linternaute.com/auto/magazine/photo/la-carrosserie-francaise-du-style-au-design/delahaye-135-cabriolet-par-henri-chapron.shtml
http://www.supercars.net/cars/3691.html
http://www.flickr.com/photos/10983301@N06/4588767226/

フランスは国内が第二次世界大戦の戦場になったこともあり、国土が荒廃して富裕層が没落。1954年、DelahayeはHotchkissに吸収されます。それでHotchkissをベースに車体を製作しなくてはならなくなります。ところが問題は適当なベースがないことでした。Hotchkissは当時、前輪駆動車の前輪等速ジョイント(トラクタ・ジョイントと呼ばれた)を発明したJean-Albert Gregoireの開発した前輪駆動乗用車を生産していました。話が横道にそれますが、こちらについても書かせていただきます。
http://fr.wikipedia.org/wiki/Jean-Albert_Gr%C3%A9goire

グレゴワール氏のトラクタ・ジョイントの特許はDKWやシトロエン・トラクション・アヴァンの他に第二次世界大戦時の軍用四輪駆動車(アルヴィス、ウィリス・ジープ、ランドローバー)にも使われ、彼は巨額の富を手にするのですな。戦後、乗用車としてパンアール・ディナの他に2ℓクラスのオチキス・グレゴワールを開発するのですが、これは1950年に出ました。水平対向4気筒エンジンの前輪駆動車でした。これが当時、シトロエン11CVのライバルになった。シトロエンは次期車種DSを開発していましたが、アンドレ・ルフェーブル氏が水平対向エンジンに拘ったのもライバルの存在があったからでしょう。ところが後方気筒の冷却がうまく行かずに停滞。誰も書かないけど、これ社内で相当議論されたと思います。

●多分、ルフェーブル氏が怒り爆発。ベッキア氏は冷却用開口部が少ないので何とかならんかとベルトーニ氏に懇願するも彼は妥協しない。ブーランジェ前社長の急死で後任のピュイズー社長が困り果て、ルフェーブル氏に頭を下げて解決。ベッキア氏は名誉挽回のために次世代エンジンを意地でも開発して3ℓV8を1960年に出すものの、ミシュラン家は1958年に政権に就いたドゴール将軍と親友のベルコー氏を社長にすえた方が政府に顔が利くからと社長交代。ベルコー氏はベッキア氏を過小評価してマセラティと組んだとか。勝手に想像してみました。

オチキス・グレゴワールはfull-widthの戦後型ボディだったにも関わらずあまり売れず1953年で生産停止。しかし2ドアは継続され、これをベースに屋根なしのGregoire Sportを1955年にHenri Chapronのボディで出したものの10台しか売れず、1962年に生産停止。事業継続が困難になります。この時、1886年生まれのHenri Chapronは70歳台に突入していました。その時、シトロエンが新型車DS19を出します。彼も見に行きましたが、よく見るとスケルトン構造で、強靭な床構造に柱を立てて鉄板や軽合金板やプラスチック屋根を貼り付けていることに気がつきました。これはいける!と彼は感激したのでした。

彼はメーカーにシャシー状態で購入したいと働きかけましたが、拒否されたため仕方なく新車を購入して分解し、製品に仕上げました。彼の手掛けた自動車です。
http://www.citroenet.org.uk/passenger-cars/michelin/ds/chapron/chapron-index.html

新たに就任したピエール・ベルコ社長は方針を改め、Henri Chapronにシャシー状態で供給することを決定。ただ、これはDS19 Prestageとセットになっていたようです。PrestageもHenri Chapronが製作しておりました。そしてシトロエンの広報誌にDecapotableが紹介されました。
http://www.citronpaper.it/Echoes/DCo04%2010-60/startdco04.htm
http://www.citronpaper.it/Echoes/DCo04%2010-60/04.JPG

デカポタブルのカタログです。当時、イラストや白黒写真ばかりの時代、オールカラーの写真集と呼ぶべきな豪華さですが、戦争終結から15年を経て苦しい時代に別れを告げる意味を込めていると思われます。このカタログ、当方は自動車の歴史上、最高傑作だと思います。
http://www.citronpaper.it/DSDepliant/61/1961%20Cabrio%20F/01.jpg
http://www.citronpaper.it/DSDepliant/61/1961%20Cabrio%20F/03.jpg
http://www.citronpaper.it/DSDepliant/61/1961%20Cabrio%20F/11.jpg
http://www.citronpaper.it/DSDepliant/61/1961%20Cabrio%20F/08.jpg
http://www.citronpaper.it/DSDepliant/61/1961%20Cabrio%20F/17.jpg

続いてDS19 Decapotableの説明です。
http://www.citroenet.org.uk/passenger-cars/michelin/ds/chapron/usine.html
 

書き込みありがとうございます

 投稿者:玄人  投稿日:2010年11月14日(日)18時23分8秒
返信・引用 編集済
  SACHIOさま、早速のお返事、ありがとうございます。当方のような記事をお読みいただきまして光栄です。Citroen DSとの関わりは、幼児の頃に白黒テレビで見た、ドゴール大統領の愛用車が始まりでした。今から思えば世界の歴史上でも屈指の名車と大偉人の組み合わせです。さてHenri Chapronの話題ですが、昨日は風邪で寝込んでしまい、あれから別のサイトを見ると、何やらすごい車が見つかりました。
http://carandclassic.com/
http://carandclassic.com/car/C188260/#

1982年のCX Prestige Henri Chapronです。創業者のアンリ・シャプロン氏は1978年にお亡くなりになり、以後は年の離れた夫人が事業を継承しましたが、1985年で活動を停止されたようです。上のCXですが、オランダに実車があるようです。続いて1965年のDS21 Dandyを紹介します。実車はドイツにあります。
http://carandclassic.com/car/C153304/

未来志向の工業製品であるCitroen DSにワイヤーホイールのカバーは似合わないと思いますが、リアの造形を見ますと、イギリスのロールスロイスやデイムラーに匹敵する製品をつくりあげようと言う心意気が感じられます。当時のフランスの自動車税は大型車に厳しかったのですが、それでもフランス製の高級車に乗りたい富裕層は量産型のDSには満足しなかったのでした。これは日産自動車に吸収される前のプリンス自動車のグロリアにも見られた傾向でした。

SACHIOさま、お心遣いしていただき、ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。
 

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